しこうけいさつ24じ・広報部

カップリング二次創作の個人サークル「しこうけいさつ24じ」(代表:眠れる兎6号)の活動記録や、日々の雑記など。(Twitter:@nemureruusagi06)

小説『エメラルド・エルドラド』

大学サークルの小説冊子用に、

とある曲をテーマに書いた、初の長編小説です。

よろしければ見てやってくださいませm( )m

誰もいない

誰も助けはしない

そこにいるさ

いつも

いつも

いつでも

見つけられるよ

ーー大橋トリオ『EMERALD』

「待ってくれ!」

 落ちていく。落ちていく。叫びも虚空にかき消えていく。

 胸元に抱えていた絵本が身体をすり抜ける。空中で開け放たれ、紙の束が波打つ。衝撃で留め金が壊れ、ページのひとかけらひとかけらが風に弄ばれ、散らばってしまう。掴もうと千切れんばかりに手を伸ばすが、またたく間にページは闇に紛れ、見えなくなってしまった。

 残されたのは、嵐の中の蝶のように紙の羽を懸命に震わせる絵本の外装。それでもなお重力に逆らい、何度も宙の中をもがく。ようやく指が届き、胸元に引き寄せる。

 果てなき暗闇を抜け、現れたのは開けた紺碧の世界。大空の中を、その青年は真っさかさまに落下していた。

 凄まじい速度で落ち続けながら、下に視線を向けると、岩石の並ぶ地面が視界に飛び込んできた。このままでは激突してしまう。全身を強張らせる青年を、巨大な影が覆う。

 見上げた青年の前に、巨大な白雲の中から、球体のようなものが姿を覗かせていた。不意に目の前でまばゆい光が弾け、思わず青年は顔を手で防いだ。

目を開くと、物体の全貌が現れていた。それは一隻の飛行船だった。その異様な外見に、青年は目を見はる。

飛行船は本体から尾翼に至るまで、すべてがエメラルドで作られていた。降り注ぐ陽を透過させ、周囲の光景を緑に輝かせる。さらに、船体の後部からは七本の金属管が突き出ていた。規則正しく一列に並び、左から右にかけて比例して長くなっていく。先端はらっぱのように外側に開いていて、中からは各管ごとに異なる高さのピアノの音がこぼれていた。

こちらに向かい降下してくる飛行船の上に、人影が見える。船と同じエメラルド色の長髪と瞳を持つ、灰色のドレスを身にまとった女性。傾く飛行船の屋根という不安定極まりない所に、裸足で立っているにもかかわらず、びくともせずに空を見渡している。風を受けて髪と服が軽やかになびき、光が横顔を照らす。

 女性と青年の目が合った。その瞬間、女性の瞳が見開かれたと思うと、女性は空中へと大きく跳躍した。

「っ!?」

 両腕を広げて、青年と同じように、いや、それ以上の速度でこちらへ墜落してくる。

(どういうつもりなんだ?このままでは、彼女も落下するだけじゃないか)

思わず目を閉じた青年だが、ふと違和感に気付いた。

 自分の落下する速度がみるみる落ちている。身体を起こしてさかさまの状態から元の向きに起き上がれるようになり、やがて、落下が完全に止まった。そのまま空中で浮かんでいる状態になる。見ると、自分の全身は緑色の光に包まれていた。ところが、だんだんと光は薄れ、瞬間、落下する感覚がよみがえる。

 再び重力が働きかけたところで、手を掴まれた。飛び込んだ女性が、青年と同じ高さで停止し、青年を支えていた。女性の背中からは同じ緑色の光が生えていて、蝶の羽のような形を作っている。しかし、その光もだんだん弱まっているようで、女性の息も荒くなり、額をいくつもの汗が伝い始める。

「まずい、こんなにも力が失われているなんて」

「き、君はいったい?」

事態を呑み込めずに問いかける青年に、女性は顔を向ける。

「あなたも、落とされてしまったのね」

女性は男性の姿を認めると、目を伏せて、小さく呟いた。

「じきに分かるわ。今はとにかく、飛行船の中へ。私の力がもつうちに……!」

 そう言い、青年ごと飛行船へと上昇を始めた。女性の背に揺らめくエメラルドの光が、目の前をよぎる。青年は、女性の手と絵本の外装を持つ両手に、力を込めるのが精一杯だった。

 飛行船に向けて女性が手をかざすと、下の乗船部の扉が開く。二人は弱々しくふらつきながら懸命に飛び、入口の中へと滑り込んだ。

「あー、危なかった!」

 女性はその場に座り込み、大きく息を吐いた。空間に静けさが戻り、飛行船の機器の小さな動作音が響く。不意に、青年が口を開いた。

「僕は、誰なんだ?」

女性が振り返り、青年を見つめる。

「分からない。この状況や君のことだけじゃない、自分が誰なのか、なぜ落ちて来たのか、何も思い出せない……」

頭を抱える青年に、女性が頭を振る。

「無理もないわ。すべての記憶が、この世界に捨てられてしまったんだもの」

目だけを女性の方に向け、青年が答える。

「記憶が、捨てられた?」

「ええ。あなたは記憶を失ったのではなく、失わされたの。千切られた記憶もまた、あなたと同じようにこの世界に放り出され、どこかに行ってしまった」

手元の絵本の感触に気付き、青年が目を向ける。何かが描かれていたはずの表紙は、かすれて真っ白になっていた。

(僕はなぜ、この本を持っていたんだろう。ここには何が描かれていたのだろう。この記憶もまた、失われてしまったのだろうか)

「そして、それは記憶だけじゃない。あなたも私も、この世界そのものも、すべてが捨てられた存在。捨てられたものは、いずれ消える運命にある」

青年は思わず叫んだ。

「どうすればいい?君には分からないのか」

女性は目を閉じ、首を振った。

「私が持っていた力もまた、失われている。すべての解をあなたに伝える力は、今の私にはない。でも、あなたが望むなら導くことはできる」

青年は顔を上げた。自分を覗き込むエメラルドの瞳に、吸い込まれそうになる。

「この世界に散らばったあなたの記憶と、私の力のかけらを集めることができれば、元の場所に戻ることができるかもしれない。あなたと私がまだ存在している、今ならば」

「元の場所……僕が、落とされた場所」

 女性は頷き、窓から遥かな空を見上げた。

「この飛行船と私は、そのための最後の羽。でも、羽は羽でしかない。空の彼方に飛ぶためには、あなたが必要なの」

 女性は青年に手を差し伸べる。

「私たちがこのまま葬られるべきだとは、どうしても思えない。力を貸して」

しばらく黙り込んだ後、青年は重い口を開く。

「なにもかも、分からないことだらけだ。でも、これだけは確かに感じる」

そして、女性の手を取った。

「戻らなければ。戻って、伝えなければ」

 飛行船の乗船部、正面には大きなピアノの鍵盤があった。女性がすらりとした指を鍵盤に乗せ、指を沈めると、船の後部の金属管から音が響き、船が浮上を始めた。

「どうなってるんだ……」

「現実であって現実ではない。ここはそういう場所よ」

「……」

荒野の中、地面すれすれの位置を飛行船は横切っていく。

「もっと、高く飛べないのか?」

横窓から地面を見下ろす青年の側で、女性はじっと前方を見つめていた。

「この飛行船は私の力と繋がっているの。私の力が回復しないことには、どんどん消耗されていくだけだわ」

そのこめかみに、一筋の汗が流れる。

「記憶や力のかけらとやらは、まだ見つからないのかな」

辺りを見渡す青年の目に映るのは、変わらない荒野の景色だけだ。

「見えてきたわ!」

慌てて青年が前方に目をやると、それまで平行に続いていた地面が、大きく窪んでいる場所があった。その窪みの中には草原があり、一面に色とりどりの花が咲いている。

「花畑?」

「まずは、体に力をつけないとね」

「それと花畑に、何の関係が……」

 視界の隅に人影をとらえ、青年の言葉が遮られる。窓から下を眺めると、小さな男の子が地面にうずくまって泣いているのが見えた。

「ちょ、ちょっと停めてくれ」

 ゆっくりと飛行船が花畑の近くに着陸する。降りた青年は慌てて斜面を滑り降り、男の子に声をかけた。

「どうしたんだい?」

男の子は泣きじゃくるばかりで、青年に気付く様子さえもない。

(この子の顔、どこかで見たような)

 ふと既視感を覚えたが、頭には何も浮かんでこない。いっこうに泣き止まない男の子に青年が途方に暮れていると、後ろから女性に手を掴まれた。

「泣き虫には、これよ」

「わっ」

 そして、青年の手を持ち上げて、くるりと身体を一回転させた。そのまま軽やかに跳ね、体を大の字に広げる。

「いったい何を?」

「踊りましょ」

そう言うと、女性は大きく息を吸い込み、歌い始めた。伴奏はないが、よく通る澄んだ声が辺りに響く。歌声に反応し、男の子は涙に潤んだ瞳を上げた。

口ずさみながら、音律に合わせて女性はステップを踏み始める。思わず聴き入っていた男性も、踊りに巻き込まれて意識を戻す。

「こ、こんなのやったことがない」

「大丈夫、好きに動けばいいのよ」

青年の動きはぎこちなく、女性の奔放な動きに合わせるのが精一杯だ。それでも、男の子はその様子に気付いて、首をかしげて眺め始めた。

 女性に引っ張られ、二人は花畑の中へと足を踏み入れる。花畑の中には、無数の花びらが敷き詰められていた。まるで絨毯の上にいるような、柔らかな感触が足を押し返す。

だんだんと青年も慣れ、息の合った動きになってきた。男の子はすっかり泣き止み、立ち上がって二人をじっと見ている。

ふと、女性が歌と踊りを停止させる。そして、男の子の方を向き、微笑んで手招きをした。男の子はとびっきりの笑顔を浮かべ、こちらに飛び込んできた。

今度は三人で、縦横無尽に花の舞台を動き回る。足を鳴らすたびに花びらが舞い上がり、赤、青、黄、無数の色に包まれる。世界が、色と音に満たされていく。

 踊り続ける中で、周りを取り囲む花の中から、何かが飛び出した。それは琥珀色に光る透明の玉で、表面は艶やかに震えていた。

「あれは何だ?」

「花の蜜よ、ここではこうやって集めるの。二人とも、いい調子よ」

女性が跳ぶたび、青年が回るたび、男の子が腕を広げるたび、一つ、また一つと琥珀色の玉が飛び出し、空中に浮かぶ。それぞれの玉が光を反射して、まるで無数のライトに囲まれているかのようだ。

「よし、仕上げよ!しっかりつかまっててね」

 そう言うと、女性は男の子を持ち上げて肩車をした。さらに、青年に密着して、腰に手を添える。そして、三人一緒になって大きく回り始めた。

 すると、点在していた蜜の玉が、三人の上の一点に吸い寄せられ始める。ぶつかってはくっつき、やがて大きな蜜のかたまりになった。

これだけ動いても、女性の声は途切れることなく、滑らかに旋律を紡ぎ続ける。男の子も息を切らせながら、女性に合わせて夢中で歌を口ずさむ。

歌の音程が上がり、回転の勢いも増して行く。三人の動きに合わせ、蜜も波打ちながら空中で弧を描き始める。歌の流れと動きの速度が最高潮に達し、女性が青年に目配せをした。

次の瞬間、二人は片手を思いっきり上に掲げ、もう片方の手を離して、外へと広げて静止した。同時に、歌も長い一音を響かせて終わった。途端に、蜜のかたまりが頭上で大きく弾けた。

蜜はいくつもの小さなかたまりになって、三人の下に散らばり、花びらに受け止められる。

男の子は歓声を上げ、肩車から降りて、かたまりの一つを拾い上げた。液体だった蜜は飴玉ほどの大きさの固形になっていた。

「うんうん成功、生き返るわ」

「おいしい!」

 はしゃぎながらいくつもの蜜玉を頬張る女性と男の子。手に取り観察していた青年も、悩んだ末に口に含むと、強い甘みと花の香りが体中を抜けていった。

「まえにも、おねえさんとあったことがあるようなきがする」

女性の方を見つめ、男の子はぽつりと呟いた。

微笑み、女性はその頭を撫でる。男の子の目が、大きく見開かれた。

「おもいだした。おもいだしたよ。あのひも、いっしょにおどってくれた。いっしょにうたってくれた。げんきのでるあまいみつをくれた。ひとりぼっちだったぼくを、きれいなせかいにつれてきてくれた!」

男の子の瞳から、一粒の雫が零れる。

「ありがとう、おもいださせてくれて。そうだ。ぼくは、ぼくにかえらないといけない」

男の子の姿がだんだんと薄くなり、エメラルドの光を放ち始める。そして、その様子を目を丸くして眺めていた青年の前に立った。

「えっ?」

男の子がこちらにぶつかって来るかと思うと、身体をすり抜け、完全に青年と重なった。青年の身体がエメラルドの光に包まれる。

気が付くと、男の子の姿はもうどこにもない。先程まで男の子のいた辺りを呆然と見つめる青年に、女性が声を掛ける。

「今の子は、あなたの失われた記憶のかけらの一つ」

どことなく身体に違和感を覚え、青年は身体を見渡した。

「わっ」

 自分の身体が、男の子と同じようにうっすらと光っている。さらに、女性の目線の先、自分の背中を見ると、先程の女性のような、エメラルド色の光の羽が生えていた。ただ、その形は不完全で、右上の部分だけが具現化している。

「蜜が効いたわ、力も少し回復したみたい。さあ、次の記憶を探しましょう」

 飛行船へ戻る女性をよそに、青年はしばらく花畑の側で立ち尽くしていた。

 ぐんぐん高度を上げ、空の中を滑らかに泳ぐ飛行船。女性も、幾分落ち着いた様子で操縦桿を握っている。

青年は辺りを見回していたが、ふと自分が持っていた絵本が目に入った。

「あれ?」

取り上げて見てみると、消えていた表紙の絵がうっすらと現れている。緑と青のかたまりらしきものだが、何かはまだ分からない。また、すべて千切れたはずだった中身のページも、数枚だけ元に戻っていた。

「この絵って」

本の中身を見て、青年はさらに首をかしげる。そこには、色とりどりの花畑の前に立つ男の子の絵があった。

(さっきの子か?いや、髪の色や服が違う。でも、この場所は……)

不意に、飛行船内が暗くなった。前に目を向けると、前方の空全体を、どす黒い雲が覆い尽くしていた。

「この先は、ちょっと危険かもしれないわ」

だが、飛行船が進路を変える様子はない。

「雲の中に入るのか?」

「この先以外、他に道は無いわ」

先端から、飛行船は黒い蒸気に包まれる。

すぐに、青年は違和感を覚えた。日の光が遮られ、一挙に船内が暗くなる。窓の外も一面の漆黒で、どんな様子かも分からない。揺れや衝突がないかとの心配に反し、停止してしまったかのように一切の船体の動きがなくなった。

「てっきり雨音や雷が鳴り響くものだと思っていたが」

そう口にするが、何の音もしない。声を出せなくなった、耳が聞こえなくなったかのような錯覚を抱く。静寂が、空間と感覚を鈍らせていく。

ひとまず壁際まで寄り、船内を見渡して女性を探そうとした時、窓の外、視界の片隅に何かを捉えた。

「なんで、あんな所に」

一人の少年が仰向けに倒れ、黒雲の中に身体を漂わせていた。一面の黒の中で、少年の姿だけははっきりと浮かび上がっている。雨に服がぐしょ濡れになり、水滴に打たれた肌は青白い。そして、意識を失ったその顔立ちは、先程の男の子にひどく似ていた。

(彼も、僕の記憶なのか?なら、助けないと。でも、どうやって)

考えあぐねる青年の元に、女性が近付いて来た。多少は目が慣れてきて、お互いの姿は確認できた。

青年が窓の外に向けて身振りをすると、女性も気付いたらしく、再び青年の方に向き直った。

『助けたい。この飛行船になにか装備はないか』

音が伝わらないため、口や手の動きで意思を伝える。

女性は首を振った。そのやりとりの間にも、暗闇を漂流する少年の姿は遠ざかっていっているようだった。

 女性が外の扉の前に向かい、青年に振り返る。

『あの中でも、しばらくは翔んでいられるはず。行ってくる』

早々と外に飛び出そうとする女性を引き止める。

『僕が行くよ』

『危険だわ!』

『大丈夫、ロープが見つかった、これを結んでいく。それに、何となくだけれど、僕が行かなければいけない気がするんだ』

『……』

『僕が落ちていた時に君が使った、あの力は使えないか』

『そんなに、保たないわよ』

固定具に自分の身体とロープを結びつけ、青年は外への扉の隙間から外に出た。身体に灯るエメラルドの光も、闇に浸蝕されてほとんど見えない。

外に出ても、拍子抜けするくらいに衝撃などは全くなかった。ただ、無音で打ち付ける雨が身体を冷やし、感覚を麻痺させていく。

躊躇したあげく、青年は一歩踏み出した。自分と飛行船を結ぶロープを片手で掴みながら、青年は少年の元へと身体を浮かせていく。

進む中で、青年の感覚が無に蝕まれ始める。自分がどこに存在するのかさえ危うくなり、真っ直ぐ少年の方に向かっているはずなのに、いつの間にか逸れてしまっている。

(どうすれば……)

突然、割れるような轟音が響き渡った。

「わっ!?」

あまりの音量に、青年は耳をふさぐ。

飛行船の後部、金属管から増幅されたサイレンの音が響き、静寂を壊した。

青年の頬を突風が撫でる。宙を翔ぶ感覚がよみがえり、わずかに日光が差し込む。異様な暗闇の裂けたわずかな隙間を利用し、素早く少年の元まで飛翔する。少年の身体を抱きかかえ、遠くにうっすらと見える飛行船へと真っ直ぐに戻る。気が付くと、周囲の黒雲はかなり薄れていた。

「早く!」

額に汗をにじませる女性に出迎えられる。飛行船内に滑りこんだ瞬間、青年の身体を包む光が消え、青年と少年は床に落ちた。女性は青年を助けた時のように座りこみ、肩で息をしていた。

「さっきの音は?」

声も普通に通る。

「雲に囲まれた時のために、飛行船に蓄えていた力。かろうじて残っていて良かったわ」

話もそこそこに、少年の身体を拭いて床に寝かせると、その目がうっすらと開いた。

「ここは……」

か細い声が、青年の耳の中で男の子の声と重なる。

「大丈夫?あなた、雲の中で浮かんでいたのよ」

意識の戻った少年は天井を見つめて、切れ切れに言葉を漏らしていく。

「投げ出されてから、ずっとあの中にいた。あそこには何もなかったけど、どこかそれが安心できる気がして。もう、このままでもいいかなって。あのままなら、雲にのまれてしまったと思う」

少年は身体を起こし、女性をじっと見た。

「でも、どこかでサイレンの音が聞こえた。いつまでも休んでいたらだめだって、教えてくれる音だった。お姉さんが、鳴らしてくれたんだね」

女性は微笑み、少年の手を握る。少年の口にも、笑みが浮かんだ。

「あ!」

二人から目を離し、前を見た青年は思わず立ち上がった。女性と少年も眼前の光景に目を奪われ、正面の窓際まで歩み寄る。

すっかり黒雲の引いた空に、七色の光が孤を描いていた。大きな虹は、雲ひとつない碧色の空の真ん中から突然その姿を現し、天の彼方まで伸びている。

「虹なんて、いつぶりに見たんだろう」

窓に手を当て、目を向けたまま、少年が呟く。

「そうだ。雨の後には、虹が出るんだ。黒い雲の後には、晴れた空が広がるんだ。世界は暗やみばかりじゃない、光もきちんとあるんだ」

透明の窓に、少年の手のひらが這う。

「どうして忘れていたんだろう。どうして何も見ていなかったんだろう。僕は……」

透き通った雫が、少年の瞳からこぼれ落ちた。その身体が、エメラルド色に光る。身体を透かし、窓向こうの虹を映しながら、少年は青年の方を向いた。

「あなたは僕じゃないけれど。僕にとってかけがえのない存在。どうか、今の僕に伝えてあげてください」

そう言い残し、少年もまた、男の子と同じように光となって、青年に吸い込まれていった。青年の背中、欠けていた右の羽は、美しい羽の形を描いていた。

「……まだ何も、思い出さない」

頭に手を当て、青年はつぶやく。ただ、いくらか頭に重みを感じた。

正面を見据え、女性は操縦に戻った。鍵盤は七色の旋律を鳴らし、虹の上を進んでいく。

船内が傾き、絵本が床を滑った。我に返った青年は慌てて本の元に駆け寄る。

手に取り、何気なく眺めた青年は、思わず本を取り落としそうになった。

「どういう、ことだ?」

かろうじて本を握ったまま、腕の力が抜ける。そのまま、青年は立ち尽くした。

表紙の絵はさらに鮮明になり、中のページもまた増していた。そこにあったのは、ぼやけてはいるが見間違いようのない、楕円の形状に鮮やかな色彩。そして、見覚えのある人物。エメラルド色の飛行船と、その側で微笑むエメラルド色の髪の女性。

虹の最頂部に着く頃には、辺りには山脈の頂点が見え隠れし、下の光景は雲に紛れてすっかり見えなくなってしまった。

そんな中、船体の動きがおかしくなる。上昇することができずに、揺れながら少しずつ下降していく。

「力が足りないのか?」

「私は平気だけど、この飛行船自体の出力不足が原因ね」

顎に手を当て、辺りを見渡す。

「結晶を見つけなければいけないわ。それが、この船の燃料になる」

「結晶……エメラルドの?」

「そう、この辺りの山に、鉱脈があるはず」

「あそこか」

青年が指差した先、切り立った大きな崖の奥、岩壁に黒く穴が空いている。

ふらつく船の舵をとり、穴の側に飛行船が停止した。青年は乗船部の壁に掛けられていた、二つの白色のルーペを手に取る。

(結晶は、ルーペを通してしか見つけることができない)

ルーペ上部にあるスイッチを入れた。すると、先端にかすかな灯りが付いた。そのルーペの一つを、女性に手渡した所で、青年の動きが止まった。

「どうして僕は、こんなことを」

無意識にとっていた自分の行動に、青年は呆然とする。

飛行船を降り、二人で洞窟に向かう。入口は深い闇をたたえており、照らし出すと無機質な岩肌が覗いた。高さは、青年の背丈より少し大きいくらい。

青年を先頭に、二人は中へと足を踏み入れる。その先の道が二本に分かれていた。

「右、だったような」

直感のような感覚を頼りに、複雑に分かれ入り組んでいく洞窟を奥へ奥へと進んでいく。道中、壁や地面、天井に至るまで、ルーペを覗き込んで見ても、変わらない灰色の岩肌が続く。

「そろそろ見つかっても、おかしくないんだけど」

女性が、小さな声で呟く。さらに奥を目指していると、細長い道から、開けた空間へと出た。

二人の持つ光に照らされ、飛行船一つが収まるほどの広さの空洞が現れた。床には岩石のかけらが散乱し、壁のあちこちに何かで引っ掻いたような痕が無数についている。奥には欠けたつるはしなどの発掘器具、それと二人が持っているのと同じ、白いルーペが打ち捨てられていた。

「……自然の空洞じゃないな」

「きっと、誰かが通路の途中から掘り進めていったんだと思うけど、こんなに……」

突然、洞窟全体が大きく揺れ始めた。

「な、何!?」

入口の部分、天井の岩が崩れ、周りの壁や天井からも岩のかたまりが剥がれ始める。

岩雪崩は二人を押し潰すかの如く、四方から迫っていた。とっさに青年は女性ごと地に伏せ、頭を抑えた。

しばらくして、ようやく轟音が鳴り止む。静寂が戻り、青年は女性の無事を確認する。女性も身体を起こして応じた。

「怪我がなかったのは幸いだけど、困ったわね」

辺りはすっかり落石に覆われ、来た道も全く見えなくなってしまった。ただ、地震で天井も崩れ、わずかな隙間から光が漏れるのが見える。

周りを塞ぐ瓦礫を素手で掻き分けようとしてみるが、すぐに巨大な岩石に防がれる。押してもびくともしない。八方全てを試して見ても、隙間さえなかった。

「残されたのは……」

上の小さな光を青年は見つめる。

「なんとか、あそこから出られないだろうか」

「できるかも、しれないわ。手を貸して」

女性に言われるがまま、ルーペを首に掛けて、両手を繋ぐ。

「いい?イメージして。黒い羽の中に、エメラルドの輝きを持つ蝶を」

「蝶?」

「強く、強く。きっと、記憶の中にあるはずよ」

目を閉じ、蝶の姿を思い浮かべる。

(エメラルドの蝶、エメラルド、蝶――『めのまえで、ぴかっとなにかがひかりました。あおみどりいろのひかりが、ふわふわとめのまえをよこぎっていきます』なんだ、この記憶は?『それは、いっぴきのちょうでした。くろくふちどられたはねのうえで、あおみどりいろのりんぷんがあざやかなもようをえがいています。そのはねが、たいようのひかりをうけて、ぴかぴかとかがやいて――』)

青年の意識は、エメラルド色に染まっていった。

洞窟の暗闇の中、二匹のエメラルドに光る蝶が、天井に空いたわずかな隙間を抜け、空に飛び立っていった。

意識が戻った時、青年は洞窟の上空にいた。側では女性が自分の手を握り、身体を発光させている。

「うまく、いったわね」

その直後、光が弱まり、ぎこちない動きで二人は宙をさまよい、洞窟の外の地面に不時着した。

「大丈夫か?」

「さっきので力を使い果たしちゃったみたい。でも、飛行船本体にエネルギーがあれば、まだ翔べるわ。洞窟の入り口に戻って、また結晶を探しましょう」

その時、遠くの方で打撃音が響いた。続けて、砕ける音や割れる音が響く。

女性の顔色が変わった。一目散に音のする方へと駆けていく。慌てて青年はその後を追う。

洞窟の入り口まで近付くにつれ、打撃音は大きくなる。入り口前に飛び出した青年は、眼前の光景に目を見開いた。

飛行船が、横倒しになり地面に接触していた。船体のエメラルドにはひびが入って欠け、形が歪んでいる。その側で、鉄の棒を振り下ろし、なお飛行船を壊し続ける人影があった。

「何をしているの!」

女性が鋭く恫喝する。振り向いた人影は、目がくぼみ、頬がこけた、青年と同い年くらいの男性。人相がかなり変わってはいるが、男の子や少年の面影を残している。

「君も……記憶の一人か?なぜこんなことを?」

 青年を、淀んだ目が捉える。

「行く必要なんかない」

 低く刺々しい声で、その《記憶》は答えた。

「放っておけ、あんな奴の事なんて。このまま、終わらせてやるのがいい」

女性は《記憶》を睨みつけた。

「奴?誰のことだ?」

「思い出す必要もない。どちらにせよ、この世界も、じきに終わる」

《記憶》の背、空の一面にはいつの間にか、黒雲が立ち込めていた。黒雲は少しずつ増幅し、紺碧の空を飲み込もうとしている。

さらに、地面がまたも大きく揺れる。三人の立つ崖の側、山が衝撃で崩れ落ち、雲に飲まれて見えなくなった。

「俺たちも同じだ。ここで、黒雲の中に呑まれて消えていく」

「だからこそ、抗うんじゃない!あなたは、それで納得できるっていうの?」

《記憶》の口に、乾いた笑みが浮かぶ。

「奴が俺たちを捨てた、それが全てじゃないか。捨て犬が、飼い主に尻尾を振ったところでどうなる、また捨てられるだけだろう」

 無言のまま、女性が《記憶》の元に歩み寄る。青年と女性を見据え、《記憶》は言った。

「誰にも助けてもらえない。そんな存在は、大人しく消えるべきだ」

「甘えるな!!」

いきなり、女性が《記憶》に殴り掛かった。胸ぐらを掴み、《記憶》の顔を引き寄せて叫ぶ。

「助けてもらえないなんて、本当はちっとも思ってやしないんでしょう!そう言って諦めきったような振りをしていれば、救ってもらえるとでも?また一からやり直しなんてできない、このまま永遠に終わりになるのよ!?結局あなたはありもしない終末にすがっているだけじゃない!何一つできることもせずに!」

「知った風な口を効くな!」

 《記憶》が女性を殴り返した。青年が割って入り二人を引き離す。口の隅に血が滲ませながらもなお睨み続ける女性に、《記憶》がまくし立てる。

「お前らが探しているのは動力の結晶とやらだろう。俺も探したさ。物語の道筋通りに進んだ。だがそこには何もなかった。そんなはずはないと一帯を必死に掘り起こしても何も出てこない。そう、かけら一つさえもだ。洞窟のあらゆる場所から結晶は失われていた。この世界でも奴はなお俺らを拒絶したんだ。悲劇のヒロイン気取りで消えていくつもりなんだろうさ!」

 荒い息を吐き、拳を握り締めて二人と対峙する《記憶》。女性はなおも《記憶》に挑もうとするが、青年に制止される。重苦しい沈黙の中、岩の崩れていく音が遠くで響く。

「……どうすればいい。俺たちの声なんて、奴には届かないままじゃないか」

 力なく腕を下げ、うなだれる《記憶》。女性はその様子をじっと見据えていたが、目を離し、洞窟のほうへ歩き始める。女性の首に掛けられた白いルーペが宙に踊った。刹那、その中に緑の光がきらめくのが、青年には見えた。

「ん?ちょ、ちょっと待て」

 女性を引き留め、自分のルーペを持って周囲を覗き込む。洞窟の方にも、飛行船の方にも光は見えない。

「と、いうことは……」

 《記憶》の全身を、ルーペに映し込む。

 エメラルドの光は、《記憶》の胸部から放たれていた。近付いてルーペで覗き込むと、胸の部分が透き通って見え、握り拳ほどの大きさのエメラルドの結晶が光を放っていた。ルーペ越しに映る光を、《記憶》は呆然と見つめる。

「結晶は、初めから君が持っていたんだ」

「……はは、なんだよ、これ」

 《記憶》は肩を落とし、苦笑した。

「最初から、探しているものは俺の中にしか無かったのか。なんたってこんな分かり辛いところに隠しやがったんだ」

 笑いは止まらず、目の縁に涙が滲む。

「奴だけじゃない、俺もまた甘えていたんだな。外にばかり目が向いて、一番世話をみるべき奴をほったらかしにしてしまっていた」

 《記憶》の身体が透き通る。青年の方に歩きながら、女性の方を向く。

「謝りはしないぜ、文句はあとで奴に言ってくれ」

 そして、青年の前で立ち止まり、自分の胸に手を添える。

「こいつは、お前に託す。面倒くさい奴だが。どうか、よろしく頼むよ」

その《記憶》もまた、青年と同化した。背中に光る羽の、左上が具現化する。発光の止まった青年の手には、いつの間にか先ほどの結晶が握られていた。

「……飛行船は、元通りには飛べそうにないわね」

 歪んだエメラルドの壁に手を当て、女性はうつむく。

「あいつの言っていた通り、このまま見捨ててやろうかしら」

ぼやく女性だが、青年の視線に気付いて苦笑した。

「分かってる、ここまで来て退く気はないわよ。一か八かの手に出る」

女性は青年から結晶を受け取ると、飛行船の上に立った。両手で結晶を包み、指を組んで額の前に掲げる。

「飛行船はもう、独立して動くことはできない。だから、独立した存在の私を飛行船に同化させる。それなら、この結晶の力も使える」

「君の存在はどうなる」

声を荒げる青年に、女性は微笑んだ。

「魂までもが失われる訳じゃないわ。それに、どちらにせよ私にはもう力は残されていない」

女性は目を閉じると、祈るように頭を垂れた。飛行船全体が、ほのかに発光を始める。

「存在すべてを賭けて、私が道を作る。あとは、あなたが翔んで」

女性と飛行船を包む光は強さを増し、結晶が深緑の閃きと共に弾けた。

緑が全てを覆い尽くし、やがて元の色彩を取り戻す。崖の上に在った女性と飛行船の姿は、影も形もなくなっていた。

空を見上げると、立ち込める黒雲の隙間を縫うように、斜め上に向かう空中ブランコの列が空中に浮かんでいた。

「急いで!」

天から、女性の声が響く。

青年は、崖のすぐ側、天に下がる空中ブランコの手すりを掴む。頑丈な支えもなく、ただ虚空から生えるだけのブランコはひどく危うげなものだったが、引っ張り返すと糸が張り詰め、確かな抵抗力を伝えてくる。

手すりを両腕で掴み、崖から助走をかけて空中に飛び出す。身体が振り子のように大きく揺さぶられ、大きな孤を描く。

ブランコの真下を過ぎ、速度が緩まり始めた所を見計らい、青年は手を放した。身体をしならせ、次のブランコへと腕を伸ばす。開いた手に、確かな棒の感触が伝わる。勢いはブランコを移っても止まらず、少年は滑らかに連続で翔び続ける。その前に、黒雲の壁が立ちはだかる。空のわずかな隙間も、黒雲に押しつぶされ、完全に覆われようとしていた。

「軌道内に黒雲が入ってきたわ……この中で落ちてしまえば、私の力でも助けられるかは保証できない。気をつけて」

青年は頷き、雲の中へ勢い良く身体を投じる。

降り注ぐ雨に、感覚が無に染め上げられていく。それでも、一面の黒の中、ブランコだけは真夜中の電灯のごとく、エメラルド色に灯っていた。

視覚の情報を頼りに、ブランコの間に結ばれた見えない直線を、青年は辿る。方向感覚が失われ、真っ直ぐに翔んだつもりでも、少しずつずれが生じ、しばしば片手が外れる。ブランコを握る触感もなく、意識して力を込めなければ、手の力を抜いてしまいそうになる。頬に冷や汗が伝うのを感じながら、一回一回を慎重に翔んでいく。だが、時間をかければかけるほど、疲労が蓄積される。周囲の感覚が奪われていることで、体力の消耗をより色濃く感じる。

女性の声もここには届かない。唯一続くブランコの道も果てが見えない。どこに居るのか、どれくらい進んだのかも分からない。

(一人取り残される、暗闇の中)

 強い既視感が頭に弾け、青年は目を見開いた。意識が揺らぎそうになり、歯を食いしばって飛翔に集中する。

 腕が真っ赤に染まり、汗が吹き出す。乾いた息を何度も吐き出しながら、それでも青年は向かっていく。その先の闇のわずかな隙間から、陽の光が覗いた。

 あと四つ、三つ、二つ、一つ――光の傍のブランコを掴もうとした時、手が宙を切った。

 方向を誤り、身体がブランコをすり抜ける。必死で右手を伸ばし、持ち手の端をかろうじて捉える。同時に、重力に身体が引っ張られ、身体が大きく揺れる。

 懐にしまった絵本が、零れ落ちた。左手を伸ばすが、届かない。闇の中に、絵本が吸い込まれていく。

 気が付くと、右手を離していた。支えを失った青年は、絵本と共に落下する。

『――!!!』

 女性の叫びが、どこかから聞こえた気がした。

 陽の光も、ブランコの灯も消える。黒の中、青年と絵本だけが残される。

『駄目だ!』

 虚空に消えかえる絵本に向け、全身を闇に投じる。

(失うな!もう、捨てさせるな!)

 両手を絵本に伸ばす。青年の背の不完全な羽が、闇の中で光を放った。

 掴んで引き寄せた絵本の表紙は、完全な姿を取り戻していた。光の蝶に包まれ、飛行船の上で手を繋ぐ、男の子と女性の姿。青年の前で、その中身が紐解かれる。青年の目が大きく見開かれ、口が小さく動く。

『そうか……そうだったのか……』

 青年の落下が止まる。絵本からエメラルド色の強烈な閃光が放たれ、一面の闇を割った。

黒雲が晴れ、紺碧の空が広がる。その中央に青年は浮かんでいた。背中には左右対称、すべての形が揃ったエメラルドの光の羽が揺らめいていた。

「思い出した、僕は、僕は――」

少年は目を閉じ、穏やかに微笑んでいた。宝石のように澄んだ雫が、両目から零れ落ちていた。そして、絵本に描かれた物語を、頭に浮かべる。

友達のいない男の子が、エメラルドの蝶を見かける物語。蝶に誘われ、エメラルド色の不思議な世界に落ちてくる物語。飛行船に乗った女性と出会い、世界を旅する物語。花畑の中で女性と踊り、蜜を集める物語。黒い雲をサイレンで晴らし、虹の橋を渡る物語。山の洞窟、白いルーペで結晶を探す物語。女性と再会を誓い、空を越えて元の世界に到る物語。

「僕は、この絵本が大好きだった。子供の頃、この絵本を何度も読み返した。この少年のように旅してみたくて、外を探し回った。そこにはエメラルドの飛行船も花畑も虹も結晶もない、なんでもない世界だったけど、不思議と輝いて見えた。全部この絵本が、教えてくれたことだったんだ」

「そう、それは私たちの物語」

 青年の前に、一羽の蝶が舞い降りる。黒の中に、鮮やかな緑の鱗粉が光る。頭の中に女性の声が響く。

「私は、彼の中の物語の中で、ずっと彼のことを見守って来た存在。物語は、彼の意味そのものでもあった」

 青年の額に、蝶がそっと触れる。

「もう駄目かと思ったけど。あなたが来てくれた。ありがとう、思い出してくれて」

 少年の上に浮かんだ蝶の、全身が光に包まれる。空の紺碧の、一かけらが剥がれる。一つ、また一つと空が小さく剥がれ、小さな蝶の形をとる。何十、何百、何千、何万、空の紺碧が無数の蝶になり、そこから青い空が姿を現す。蝶の群れが青年の周りを渦巻く。見上げると、澄み渡った丸い青空が姿を現していた。

「この高さなら、辿り着けるはず。さあ、伝えてあげて。空の向こうにいる彼に――」

青年はエメラルドの羽を広げ、空を目指す。速度を上げ、その中央に突き進む。空の中に一筋の光を残して。どこまでも、どこまでも、空の中を往く。

 辺りの光景が流れていく。世界が再び、闇に包まれる。遥かな先に、小さな人影が見える。

 闇の中にうずくまる、青年。青白く痩せ細った身体には生気が感じられない。膝の中に顔を埋め、一切の動作を放棄している。

 翔んでいこうとするが、透明な壁に遮られているかのように。先に進めなくなる。拳を叩き付け、青年に呼びかける。

「聞こえるか!目を開けろ!」

 反応はない。

「なぜ君が僕らを、あの世界を捨てたのか、今なら思い出せる!君は、物語に裏切られたと思ったんだ。現実は現実でしかない、物語は無力だと」

 幼い男の子のように泣きわめく青年の姿がよぎる。冷たい無に震える青年の姿がよぎる。何も見つけられずに壊していく青年の姿がよぎる。

「でも違う!物語はいつだって君の側にいる!君という現実の中で、確かに僕らは存在しているんだ!だから、僕は戻って来れた!」

 言葉に、力を込める。伝えるために。

「君は死なない!僕らは死なない!助けるんだ!僕が……、いや、違う――」

                       

《記憶》とーー自分と全く同じ姿の青年に向かい、彼の中の希望は叫んだ。

「君が、君自身を救うんだ!」

世界が、音を立てて割れた。

目を覚ます。朦朧とする意識の中、頭を振って考える。

どのくらいの間、こうしていたのだろう。何の力も湧かなかった。このまま消えてしまいたいと思っていた。でも、どこかで叫びを聞いた。

ぼやけていた頭も、今は澄み渡っている。何も感じなかった身体も、強い渇きと空腹を訴えていた。

不意に、花の香りが鼻をついた。いつの間にか、手には何かが握られていた。黄金色に輝くかたまりを、無我夢中で貪り食う。

空腹が満たされると、自然と足が動いた。眼前の扉を押す。重い扉が、軋みながらゆっくりと開く。窓から陽の光が差し込んで薄暗い廊下を照らし、ガラスに反射して小さな虹を作っている。廊下を進み、奥の階段を上がる。いつしか走り出す。予感のようなものに掻き立てられ、息を切らせて駆けていく。階段の先の扉の隙間から、光が漏れている。開け放つと、強い光に包まれ、視界が白く染まった。

先に在ったのは、なんでもない街の光景が広がる、マンションの屋上。まだ目が光に慣れず、ぼやけた世界を手探りで進む。

ようやく視界が戻ってきた青年の前に、何かが落ちてきた。思わず手で受けると、ずっしりと重く、ひやりとした感触が手を伝う。それは光を受けて、緑色にきらめいた。

どこから落ちてきたのだろう。振り返り、空を見上げた青年の前に、広がっていたもの――

空を、紺碧の蝶が埋め尽くしていた。花吹雪のごとく舞い踊る蝶が、空を、世界をエメラルドに染め上げていく。滑らかに空を渡っていく蝶の群れ。遠くから、小さなピアノの旋律が聞こえてくる。

手の中のかけらを握りしめ、呆然とそれを眺める。冷たい岩肌の感触に、自分の手のひらの温かさを強く感じる。

胸の中に、力が湧いてくる。顔が燃えるように熱くなり、清涼とした喜びが、花開いていく。

エメラルドの蝶の大群を見送りながら。

青年は、生きていけるような気がしていた。

(おわり)