しかくいべんとーびやくゆりじけん(『キルミーベイベー』二次創作)
やすながふざけて、ソーニャが怒る、いつも通りの日常。
だが、殺し屋の自分が平穏な日々を過ごしていることに、ソーニャの心は揺らいでいた。
そんな時、刺客が襲い掛かり、ソーニャをかばってやすなが凶弾に倒れる。
猛毒に苦しむやすなを前に、ソーニャがとった行動とは。
漫画・アニメ『キルミーベイベー』の二次創作で、
ソーニャ・やすなの百合(女性同士の恋愛)小説です。
全年齢向けになるように一部の描写をカットしており、
元の版はpixivの方に掲載しております。
百合描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。m()m
自分なりに、キルミーと百合への思いを詰め込みました。
ご覧になっていただけると、嬉しいです。
私の名前はソーニャ、殺し屋だ。普段は正体を隠し、一般の高校に通っている。
午前の授業が終わり、教室の中が賑わいを見せ始める。それと同時に、隣からひときわ大きな声が発される。
「ソーニャちゃーん!」
いきなり突進してきた人影をかわし、その腕をひねり上げる。
「あだだだだ!」
そいつは身をよじり、足を床に打ち鳴らして叫んだ。その腹から、教室中に響くほどの重低音が絞り出される。そいつの全身から力が抜け、床にへたり込んだ。
「騒がしい奴だ……」
呆れて拘束を緩めると、そいつは膝をついたまま腹を押さえ、蚊の鳴くような声を絞り出した。
「朝ごはん食べそびれた上、昼ごはん忘れたー……」
「自業自得だ」
私が冷静に述べると、そいつは弾けるように跳び起き、こちらに向き直った。腕を振り回し、口をとがらせてわめき始める。
「その冷たい反応はなに!?大親友が苦しんでいるというのに!」
「大親友?誰のことだ?」
私の態度などお構いなしに、言葉を並び立てる。
「こうなったのも昨日ソーニャちゃんに付き合って校庭を夜まで掃除してたから!つまり、私が今日ご飯を食べられなかった原因はソーニャちゃんにあるってこと!責任とってよ!」
「知るか!そもそも掃除させられる羽目になったのも掃除が遅くなったのも全部お前のせいだろ!」
「さあご飯を出しなさい!ここか?ここなんか?」
「どこ触ってんだ!」
背後から抱きついてきたそいつに、強烈な肘鉄を喰らわせる。地面にうつ伏せて小刻みに震えるそいつを放置し、私は鞄から昼食の焼きそばパンを取り出した。
「ソーニャちゃんって、いつもお昼それだよね」
何事もなかったかのように起き上がり、再び話しかけてくる。
「別にいいだろ」
「よくないよ!栄養価が偏るよ!だから胸囲もそんな残念な感じに」
異様にむかついたので、今度は顔面に拳を入れた。が、大してダメージを受けた様子もなく、大袈裟に嘆き始める。まったく、しぶとい。
「これはひどい!深刻なカルシウム不足だよ!そんな危険人物にこれ以上焼きそばパンを摂取させる訳には!」
「おい、何をする!」
そいつの手がさっと動き、私の焼きそばパンをかすめ取った。ビニールの梱包を破り、てかてか光るパンの表面を眺め、涎を垂らしている。
「さあさあ早く購買に行って野菜や魚を摂取して来るといいよ!この不健康な物体は私が処理してあげるから」
「自分が食いたいだけだろ!返せ!」
「あむっ!ふまひ!」
「貴様!」
そいつは焼きそばパンを丸呑みし、リスのように頬を膨らませた。こいつ、私の昼食を!懐からナイフを取り出し、口を押さえて逃げ出したそいつを追いかける。
「むぐっ!?」
走り出して数秒も経たないうちに、そいつは苦しげな声を上げ、胸元を拳で叩き始めた。だんだんと腕の動きが弱まり、目が吊り上がる。足の速度も緩まり、顔色が赤から黄色、青と信号機のように変わっていく。白目を剥くと、ついに仰向けに倒れた。
「……詰まらせたか」
そいつの末路を見届けると、私は溜息をついて自分の席に戻った。
「いや、助けてよ!」
生死の直前で咀嚼できたらしく、そいつは起き上がって抗議の声を上げた。もうちょっと頑張れよ、焼きそばパン。
私の昼食を奪ったこのバカの名前は、折部(おりべ)やすな。外見は何の変哲もない茶髪の少女なのだが、その中身は死ぬほどうざったいお調子者だ。私が殺し屋なのを知ってからというもの、怯えるどころか四六時中つっかかって来るようになった。そのせいで、毎日のようにトラブルに巻き込まれる。
今日も、昼食を新たに買いに行かねばならなくなった。私の昼食を食ったにも関わらず、なぜかやすなの奴も付いてくる。買う内容にあれこれ口出しされ、なんだかんだで食事にも同伴された。はあ……。
放課後、珍しく一人で靴箱へと向かう。
「あ、探してたんですよ~」
後ろから、おっとりした声をかけられる。振り返るが、人の姿はない。見上げると、長髪の女が真っ逆さまになって天井に立ち、こちらを見下ろしていた。物理法則を完全に無視している光景だが、慣れっこの私は軽くあしらう。
「また意味のないことを……」
「ふふふ、忍者ですから」
こいつは呉織(ごしき)あぎり。私と同じ暗殺組織に属する忍者だ。私と同じように、この高校に通いながら組織からの指令をこなしている。
あぎりは細めた糸目を開くと、天井から降りて軽やかに着地した。周囲を見渡し、首をひねる。
「あれ、あの子は一緒じゃないんですか?」
「あいつは『大事な用があるから!』とか言って先に帰ったぞ」
そう言えば、去り際に『明日はお昼ごはん、絶対に持ってこないでね!』と念押しもされたな。意味が分からん。
「それは、今回ばかりはありがたいです」
「……“仕事”に関する話か?」
あぎりの意味深な反応に、私は人の気配が他にないことを確かめ、声を低める。
「はい。実はつい先程、組織から警告がありまして。新たな刺客が、付近に潜伏しているそうです」
刺客、という言葉に私は眉を動かす。私とあぎりが属する組織と敵対する、殺しのプロのことだ。私たちを亡き者にすべく、これまでにも様々な刺客が差し向けられてきた。
「とは言っても、どいつも間抜けな奴だっただろ。そんなに警戒する必要があるのか?」
過去の刺客の顔を思い浮かべながら、私は肩をすくめる。バレたらすぐに正体を明かす上、やれ変装だの時限爆弾だの奇をてらった方法ばかりで、大半が自滅していた。
「油断はいけませんよ。聞いた話ですと、今回の刺客は恐ろしい新型の武器を持っているらしいですし」
いつも通りの間延びした口調だが、目が笑っていない。あまり、呑気に構えてもいられないらしい。
「わかった、警戒しておく」
「お願いします。また何か分かったら、お知らせしますね。それでは~」
煙幕と共に、あぎりの姿は消えた。
学校を後にし、夕暮れ時の川沿いの道を歩く。河原では子供たちが走り回って遊び、川向こうでは夕陽が周囲を照らしている。ありふれた平坦な光景、いつも通りの一日の終わり。そんな日々の中にいると、たまに自分が殺し屋であることを忘れそうになる。
やすなに絡まれるようになってからというもの、殺しの回数は大きく減っている。今まで何度か刺客に襲撃された時だって、やすなが近くにいて、刺客に直接手を下すことができなかった。結局、あぎりや組織に身柄を引き渡し、処分を委ねてしまっている。
いっそやすなの奴を始末してしまえば、間違いなく仕事も快適にこなせるようになるだろう。だが、それが何故かできない。依頼もないのに殺しを行うのは、殺し屋としてのポリシーに反するから。ただそれだけの理由だ。そういうことにしている。
今のところ、組織からは何も言われていない。最低限の指令も問題なくこなせている。だが、それでも向こうには伝わっているだろう。役立たずは、いつ排除されてもおかしくない。
「……そうだ、私は殺し屋だ」
言い聞かせるように、ぽつりと呟く。
「もし、刺客と遭遇した時は」
身体に仕込んだナイフの感触を確かめ、私は一人、家路を急いだ。
†
翌日の朝。教室に入ると、やすなが私の机の下にしゃがみ込み、何やらいじくっていた。
「何をしているんだ?」
「あげぇ!?」
声を掛けると、奴の頭が跳ね上がり、机の下に頭をぶつけた。
「そ、ソーニャちゃん、今日は早いんだね」
「通学を妨害してくる、どこぞのバカがいなかったからな。で?何・を・し・て・る・ん・だ?」
「ギブギブギブギブ」
後ろから羽交い絞めにし、首を絞める。こいつが私の机に何かしている時には、決まってろくなことがない。
「こ、これを入れてただけだよ!」
やすなが机の中に手を伸ばし、一冊の本を取り出す。その手には、絆創膏がいくつか巻かれていた。昨日は怪我などしていなかったはずだが。
「レシピ集?」
「ほら、ソーニャちゃんって食生活偏ってそうだし、健康なフードライフを過ごしてもらおうかと」
「言っとくが、私は自炊せんぞ」
「えー!?」
「殺し屋に料理をする時間などない」
「分かってないね!」
腕組みをして答える私に、やすなが指を突きつける。
「食べるものって、身体にも関わってくるんだよ!ほら、スポーツ選手だって、毎日プロテイン飲んでるし」
「それ料理じゃないだろ」
「365日焼きそばパンじゃ、身体が焼きそばみたくニョロニョロのだるんだるんになっちゃうよ!」
「焼きそばパンばっか食ってる訳じゃねえよ!」
「どうかな?そう言ってても無意識のうちにボディはたるみ切って」
くそ、苛々してきた。やすなに伸し掛かって関節技をかけ、たわごとを吐く口を黙らせる。
「あっ!あっ!すごい力!ごめんなさい!カチカチでーす!」
一分ほど技をかけて、解放してやる。痛そうに身体をさすっていたやすなだが、はっと飛び起き、眉をひそめる。
「それともアレ?相手を美味しく料理してやるゼ的な、そういう寒いノリで」
「まず貴様から料理してやる!」
「げうっ!優しく!優しく調理して!」
やすなを追い回し、頭をどつき倒す。いつも、こいつのペースに呑まれっぱなしだ。そしてなんで私は、それにいちいち付き合っているんだろうか……。
そうしているうちに予鈴が鳴った。仕方ない、報復はこれぐらいにして、授業に専念するとしよう。
一限、二限と過ぎ、昼休みが訪れる。やすなは机に突っ伏して、居眠りをしていた。
つかの間の静寂を噛みしめ、教科書や筆箱を机の中にしまう。だが、奥に何かがつっかえて、うまく入らない。おかしいな、今朝から物は入れていないはずだが。
中を覗くと、布に包まれた包みが一つ。全く覚えがない。ひとまず取り出し、机の上に置いてみる。耳を当てたり、持ち上げ軽く振ってみたりしてみるが、音はしない。
こんなことをするのは誰か。まず思い浮かぶのはやすなだが、今朝に奴が入れたのはレシピ本だけのはず。ふと、昨日のあぎりの話を思い出し、背筋に冷たいものが走った。
潜伏している刺客は『恐ろしい新型の武器』を持っていると言っていた……。もしや、これが!?ウサギ柄の可愛い布で油断させ、開けた瞬間に発動する武器なのかもしれない。音のないハイテク爆弾か、それとも細菌兵器か!?
慌てて布包みを持ち上げ、教室内のごみ箱に安置する。いや、もっと離れた所に処分した方がいいな。
「あーーー!」
目を覚ましたらしいやすなが、私を見て悲鳴を上げた。腰に手を当てて、こちらに詰め寄ってくる。
「なんで捨てちゃうの!?」
「いや、刺客が入れた爆弾かもしれないし」
「爆弾なんてひどいよ、私が用意したものなのに!」
「お前かよ……って、紛らわしい真似してんじゃねえ!」
「なんで怒るのー!?」
勢いをつけて後ろ蹴りをかますと、やすなが叫びながら真横に吹き飛んだ。
もういい、バカは放っておいて購買に向かおう。昨晩はずっと訓練をしていて、昼飯を用意する暇がなかったからな。今日は何を買おうかと考えながら、教室の後ろの扉に手をかける。
「あっ、待って~!」
なんだよ……。そう言おうと私は立ち止まり、振り返った。その頬のすぐ側を、刃が掠める。
「なっ!?」
私を狙い飛んできた刃は、近くの机に突き刺さった。指先でつまめるほどの、弾丸のような刃だ。発射された方を向くと、視線の先には教室後ろの用具入れが。扉は開け放たれ、中はすでにもぬけの殻だった。
「刺客か!くそっ」
こんな殺気にも気付けないとは、殺し屋失格だ。必ずここでケリをつけてやる……。
「ソーニャちゃん!?」
異変に気付き、やすなが近付いてくる。
「お前は来るな!」
突き放すように言い、私は外へと駆け出した。
ナイフを構え、教室外に逃げた刺客の気配を追う。廊下を走り抜け、階段前で立ち止まる。その瞬間、階上から先程と同じ刃が飛来する。
「そこだ!」
跳躍して避け、ナイフを投げ付けて応戦する。だが、相手の姿は掻き消え、私のナイフは空を切った。
「逃げずに応戦してくるとはな。上等だ」
地に刺さったナイフを抜き、私は刺客の後を追う。西階段、北廊下、部室錬……いずれもこの時間帯に人の気配がなく、陽が差し込まない場所だ。私のわずかな隙を狙って、物陰から刃が飛んでくる。手馴れてはいるようだな。だが、まだまだ甘い。
私の投げたナイフが、刺客の足をかすめる。服が破け、血が滴る。またもその姿が掻き消えるが、床に血痕が残っている。これで追いやすくなった。投げたナイフを手早く回収しながら、血痕を追って最上階の廊下を走る。
「……追い詰めたぞ」
下の階と違って、この廊下の先は行き止まりだ。己の失策を悟った刺客が、こちらを振り返る。窓から差し込む陽が逆光になり、顔はよく見えない。全身に黒装束をまとい、手には細長い筒のようなものが握られている。やはり、あの刃は吹き矢だったか。
「動くな、少しでも動いたら貴様の顔面を貫く。私を誘い込んだつもりだったか?残念だったな、誘い込まれたのはそちらの方だ」
ナイフを構え、刺客との距離を詰める。
その時、刺客の口元が歪んだ。床を強く踏み上げて跳ぶと、背後の窓に勢いよく突っ込んだ。派手な音と共にガラスが粉々に割れ、欠片が光を反射して光った。
「何っ!」
慌ててナイフを投げるが、窓の外へすり抜けていく。刺客の腕から鎖の付いた鉤爪が放たれ、校舎の上に突き刺さる。高速で鎖が巻き戻り、刺客の身体は上昇していった。
「ちっ、上に逃げたか」
その場を離れ、階段から屋上へと向かう。その途中で通信機を取り出し、忍者のあぎりに応援要請を入れた。
屋上の扉を空け放ち、周囲を見渡す。人影はない。物陰も少ない場所だし、逃げたのかもしれないな。
「くっ」
その考えを掻き消すかのように、刃が飛んでくる。向こうもとことん殺り合うつもりらしい。
屋上を囲むフェンスの向こう側に、刺客はいた。金網の隙間から、筒の先端が覗いていた。刺客の頭を狙いナイフを放つが、網に遮られる。それに対し、刺客の筒は隙間をくぐって私を狙ってくる。これでは、檻の中に入れられたも同然だ。
自分の優位を悟ってか、刃の攻撃が激しくなる。避けきれなくなり、とっさの所で刃をナイフで防ぎ、弾き飛ばす。
「舐めんな!」
金網に近付き、老朽化して脆くなっている部分に、思いっきり蹴りを入れる。鉄網の一部が丸ごと吹き飛んで落下し、人が通れるくらいの穴がぽっかりと開いた。
フェンス全体が大きく揺れ、衝撃で刺客の身体がよろめく。落ちないように金網に掴まった隙を窺い、素早く穴をくぐり抜け、ナイフを投擲した。
とっさに前に構えた刺客の、手には吹き矢が。そこにナイフが衝突し、吹き矢を弾き飛ばした。
「勝負あり、だ」
ナイフの刃を首元にあて、刺客を睨み付ける。相手は立ちすくみ、両手を上げた。さて、こいつをどうするか。色々聞き出すこともあるし、迂闊に殺る訳にはいかない。
場からわずかに意識を逸らした一瞬、刺客の瞳が凶悪に染まった。刹那、背後から鋭い殺気が漂う。
目を見開いて振り返る。建物の影から、刺客と同じ姿の男が吹き矢を構え、黒々とした空洞が私を捉えていた。
しまった、二人いるとは思わなかった――!
「あぶなーーーい!」
刃が私を貫く直前、突然現れた人影が、私を前に突き飛ばした。前に立っていた刺客が跳び退き、新たに表れた刺客の元へ素早く移動する。
「や、やすな!?」
私の身体にのしかかってへたばっていたのは、見慣れたバカ。よりによって、なんでこいつが!?
「邪魔するな、どっか行ってろ!」
「早まらないでソーニャちゃん!悩んでるなら相談乗るよ!」
どうやらこのバカ、私がフェンス向こうの端に立っているのを見て、誤解したらしい。
「自殺じゃねえよ!今どういう状況か分かってんのか!」
「え?屋上から飛び降りようとしてたん……じゃ……」
やすなの言葉が唐突に途切れ、頭ががくりと落ちる。
「おい!?」
その右足に、刺客の放った刃が突き刺さっていた。
「ぐっ!」
目の前に刃が迫り、すんでの所で身体を反らせて回避する。再び、刃の集中砲火が始まった。しかも、吹き矢を取り戻した刺客と、新手の刺客、二倍の刃が飛んで来る。フェンスの内側から狙撃され、足場が狭くて思うように動けない。両の手にナイフを構え、必死に刃を弾き落とす。
不意に刺客の一人が、私とは別の方向に狙いを向けた。
「がッ!」
地面に倒れているやすなの左腿に、さらに刃が突き刺さった。やすなの口から、悲痛な叫びが漏れる。
「てめぇ!!」
激昂に意識が染まり、刺客に向かい突進する。だが、そこで隙が生じた。二人の刺客が放った刃の衝撃に負け、私の両手が開く。ナイフが宙を舞い、視界の外に消えていった。
新たにナイフを取り出そうとするが、二つの吹き矢が私に向けられ、身動きが取れない。後ろに飛び退こうにも、後ろにはもう地面の感触がない。くそ、どうすればいい……!
ぽちっ。
突然、刺客のすぐ後ろで爆発が巻き起こった。爆風を受けた刺客たちは一瞬で吹き飛び、吹き矢が地面を転がって音を立てる。爆風の衝撃で落ちないよう、とっさにやすなを押さえ、顔を腕で覆う。
「怪我はないですか、ソーニャ?」
長髪の忍者、あぎりが手にスイッチを携え、こちらに歩いて来る。意識を失った二人の刺客を、素早くロープで拘束した。
「すまん、助かった」
「いえいえ~。連絡してもらえて助かりました。あ、これが新型の武器ですか。何の変哲もない吹き矢みたいですけど」
刺客の吹き矢を持ち上げ、あぎりが首をひねる。そして、やすなが倒れているのに気付き、慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫なんですか?」
「刺客の吹き矢を喰らってしまったんだ。まあ無駄に丈夫な奴だし、心配ないだろ……」
「ぐ、ぅっ」
意識を失ったまま、やすなが呻き声を上げる。そして、身体をしならせ、苦しげに嘔吐した。地面に頭を打ち付け、吐瀉物が広がる。駆け寄ると、目はきつく閉じられ、顔から一切の血の気が引いていた。額には玉粒のような汗が滲み、全身はぶるぶると震えている。
「……やすな?」
状況を理解できていなかったのは、私の方だったのかもしれない。
†
あぎりが顔色を変え、やすなに刺さった刃を抜いて応急処置を行う。私は吐瀉物を拭い、やすなを抱え上げた。青白い顔色とは反対に、その身体は恐ろしいほどの熱を持っていた。
あぎりが刺客を連行している間に、無我夢中で保健室まで駆ける。中には誰もおらず、すぐにやすなをベッドに寝かせた。先程よりは落ち着いたようだが、その苦しげな表情が晴れることはなかった。
茫然と座り込む私の元に、あぎりが戻って来た。眉をひそめ、刺客の放った刃を手袋越しにつまむ。
「やはり、新型の武器だったようです。忍者の秘伝の毒物、どれにも該当しないものでした」
「……」
黙り込む私を気遣うように、あぎりがこちらを見つめる。私は笑顔を作り、肩をすくめてみせる。
「かえって、こいつにはいい薬になったんじゃないか」
戦闘で取り出したナイフを身体に収めながら、いつも通りの口調を装う。
「まったく、だから来るなといったのに。ま、そのうち目を覚ますだろう」
だが、あぎりは俯き、首を振った。
「……死ぬかも、しれません」
その言葉と表情に、手から力が抜ける。床に落ちたナイフが、乾いた音を立てた。
「このままでは危険です。もっと調べて、なるべく早くに突き止めますから」
「別にいい」
口が、勝手に動いていた。
「でも……」
「ちょうど良かった、こいつにはうんざりしていた所だったんだ。そろそろ昼休みが終わる、先に授業に戻るぞ」
食い下がるあぎりを振り払うように、私は保健室を出て、勢いよく扉を閉めた。
授業はまるで耳に入ってこなかった。今まで奴と過ごした日々の記憶、それだけが頭の中を渦巻いていた。
気が付くと、教室の中には誰もいなくなっていた。いつの間にか授業が終わっていたらしい。そこには、静寂しかなかった。
頭を振り、手のひらで自分の顔を叩く。何をやってるんだ私は。今までだって、何人も殺してきた。あいつが一人死んだ所で、何だっていうんだ。もういい、早く帰ろう。
鞄を開け、机の中の物を取り出す。その中に、さっきの布包みもあった。
「……捨てたはずなのに」
どうせ、あいつがごみ箱から拾い上げて、私の机に戻したんだろう。もう一度捨てようと、布包みを持ち上げた。
「……中身が何かぐらいは、確かめておこう。気になるしな、それだけだ」
兎のキャラクターが笑っている包みを開けると。
「……弁当?」
同じキャラクターの弁当箱に水筒とお箸、添えられた小さなメモには、汚い字で「手作り。感謝していただきなさい。やすな」と書かれていた。そこで初めて、自分が昼から何も口にしていなかったことに気が付く。
弁当箱を開く。卵焼きにウインナー、ブロッコリーにおにぎり、そして焼きそば。整えて配列されていたであろう品々は、衝撃でばらばらに散っていた。
お箸を取り出し、一つ一つ、口に運んていく。
「卵焼きが甘すぎる。子供かよ」
いいの!私は甘いのが好きなの!
「これは、タコ型にしたつもりなのか?」
いやー、苦労したんだよ?ついつい自分の指も切っちゃって。
「固い。ちゃんと茹でろよ」
野菜は、生の方が美味しいの!
「ぽろぽろと崩れる、おにぎりになってないぞ」
いやーお母さんってすごいよね、どうやったらあんな綺麗な三角形にできるんだろう。
「味付けが濃すぎる。購買の方がずっと美味しい」
ひどい!せっかく焼きそばパン食べて研究したのに!
「いったい何の気まぐれだよ、気持ち悪いな」
最近、料理にハマっちゃって。やっぱり、作ったからには、食べて欲しいじゃない?友達にさ!
「――ッ」
拳を、机に打ち付ける。椅子を鳴らして立ち上がり、扉を引き除け、一目散に駆け出した。
†
息を切らし、保健室に飛び込んだ。校内からはすっかり賑わいが消え、部屋の中には私の靴音だけが響く。
「……そーにゃ、ちゃん」
ベッドから、掠れた声が聞こえて来た。
「起きてるのか!?」
駆け寄ると、やすながうっすらと目を開けていた。顔は熱で上気し、瞳は潤んで色が薄まっている。制服とシーツは、尋常じゃない量の汗で、ずぶ濡れになっている。震える唇を開き、小さな声を絞り出した。
「じさつなんて、しちゃ、だめだよ」
開口一番、それかよ。
「だから、違うっての。殺し屋が自分殺してどうすんだ。お前の勘違いだよ」
「そう、なの?……よかった」
全然良くないだろ。まず自分の心配しろよ。お前はそういう奴だろうが。
「どうし、たんだろう、からだ、ぜんぜん、うごかせなくて」
「いいから、じっとしとけ」
額の上の濡れ布巾を持ち上げる。それは蒸したかのように高温で、もはや用途を成していなかった。冷たい水に浸して絞り、乗せ直してやる。
「服も、着替えないとな」
「あれ、やさしい?なにか、わるいものでも、たべた?」
口の減らない奴だ。額を小突いてやるが、いつものような反応はない。力なく枕に頭を沈めるだけだ。くそ、調子が狂う。
熱にうなされているかのように、やすなは荒い呼吸を繰り返している。私は近くの水差しを手に取った。グラスに水を注ぎ、口元に近付けてやる。やすなは喉を鳴らして、貪るように水を飲み始めた。口の端から滴が零れ、桃色の頬を伝う。空になったグラスに再び水を注ぎ、渇きを満たしてやる。
二杯の水を飲みほすと、やすなは目を閉じ、長い息を吐いた。ほんの少しだけ表情を和らげると、穏やかに寝息を立て始めた。
首元が苦しくないようにやすなのネクタイをほどく。上着も脱がせて、流れ出る汗を拭いてやる。
「ソーニャ?」
保健室の扉が開き、長髪の忍者が顔を覗かせた。
「ここに、いたんですね」
糸目をさらに細めて、心なしか柔らかい表情で近付いてくる。
「ちょっと、お付き合い願えませんか?ここでは話しづらいことがありまして」
やすなの方を振り向く私に、あぎりが顔の前で手を合わせる。
「あー、やっぱり、目を離すのは心配ですよね」
「なっ、違う!ただ、離れている間にこいつが何かやらかすんじゃないかと」
「それでしたらご心配なく、分身の術~」
あぎりが手で印を組むと、扉が開き、忍装束で顔を隠した人物が入ってきた。手には紙袋を持っている。
「着替えの制服も持ってきましたよ。これで替えてあげられるはずです」
「お前、覗いてたのか?」
「千里眼の術です」
くそ、食えない奴だ。
「私たちが出ている間は、彼女が看ていてくれますから」
「おい!?話が違うぞ、やすなやソーニャと対決できると聞いてアタシは」
忍装束の奴が何やらわめいていたが、あぎりの笑顔に一瞬で固まった。やっぱり、目が笑っていない。
「頼みましたよ~」
あぎりと私は保健室を出た。
「ぐぬぬぬ!くそっ!くそうっ!」
部屋の中から、甲高い声が聞こえてくる。
「任せて大丈夫なのか?誰かは知らないが」
「刺々しく見えますけど、いい娘ですよ。安心してください」
移動し、あぎりが普段潜(ひそ)んでいる、空き教室に入る。扉を閉じて早々、あぎりが口を開く。
「あの刺客が持っていた、毒の正体が分かったんです」
「本当か?一体どんな……?」
珍しく、あぎりが口をつぐんだ。目を伏せ、躊躇(ちゅうちょ)するそぶりを見せる。
「そんなに、恐ろしいものなのか?」
「いえ、そうじゃなんですよ?いえ、恐ろしいものなのは間違いないんですが」
私の表情を見たあぎりは慌て、努めて明るい声を出した。そんなに暗い顔をしていたのか、私は。
「その~、なんと言いますか」
あぎりは深呼吸を一つし、思い切った様子で言った。
「媚薬なんです」
「――は?」
「性感帯に作用して、性欲を高める。いわゆる、えっちなお薬というものです」
「い、いや分かるが。なんでそんなものを刺客が?」
「いえ、これが馬鹿にできないんですよ?あくまで、暗殺のための毒物ですから」
表情と口調を硬くし、あぎりが解説を始める。
「性感帯は免疫が少なく、毒が吸収されやすいんです。身体に回るのもとっても早くて、普通の毒よりもずっと早く効果が表れます。それに、性機能は命に大きく関わる部分ですから」
あぎりの言葉に、毒を受けたやすなの姿を思い出す。尋常じゃない反応だとは思っていたが、そういうことだったのか。
「何よりこの毒が恐ろしいのは、猛毒だと周囲から悟られづらいことです。毒を受けた人は意識を失い、身体も痺れてまったく動かせなくなります。でも、傍目(はため)からは高熱で寝込んでいるようにしか見えないんですよ。目立った症状もなく、眠るように死んでいきますから、毒だと発覚もしづらいんです」
「でも、やすなは……」
「今回の場合は、二回刺されて倍の毒を受けましたから、過剰な反応が起きたんでしょう。それでも目を覚ましたのは、ほとんどあり得ないことです。普通の人なら一刺しだけで気絶して、そのまま目覚めることなく、半日でこと切れますから」
「半日!?」
背筋が凍るのを感じながら、あぎりに詰め寄る。
「何か手はないのか!」
「残念ながら、解毒剤は作れないんです」
頭を下げられ、目の前が暗くなる。だが、あぎりは続けて言った。
「ですが、他に方法はあります」
「本当か?」
「単純です。元は媚薬ですから……発散させてあげればいいんです」
「発散?」
首をかしげる私に、声を小さくしてあぎりが続ける。
「この毒は、分泌液に混じって身体を蝕みます。それを外に放出できれば、毒は体外に出ていくはずです。……つまり、その」
「……!」
意味する所にようやく気付き、私の顔が一瞬で赤に染まる。
「あ、分かってもらえましたか。安心しました。まあ、色々してあげないといけない訳です」
「ばっ、馬鹿言え!!」
思わず、自分でも耳鳴りがするくらいの大声を出してしまった。今の私はきっと、耳まで真っ赤になっている。
「でも、自分じゃあ動けないんですから。誰かが、してあげないといけないんですよ」
分かってはいる、分かってはいるが。だからといって、女同士で。それもよりによって、あいつとだなんて。
「本人にとっても、恥ずかしいことでしょうから。私としては、ソーニャがしてあげるのが、一番心の負担も少ないんじゃないかと思います。お願い、できませんか?」
「できるかそんなことッ!」
目蓋をぎゅっと閉め、両腕を引きつらせて叫ぶ。顔から拳、つま先に至るまで震えているのが自分でも分かる。くそっ、これじゃあ、さっきのあいつと何も変わらない。
「そうですよね……すみません、無理を言って。ソーニャはここで待っていてください」
「……えっ?」
顔を上げた私を安心させるように、あぎりが穏やかに笑う。
「私も、友達を失いたくはないですから。不慣れですけど、何とかやってみます」
私が黙り込んだのを了承の印と受け取ったのか、あぎりは後ろを向いた。首元のネクタイをほどきながら、教室の出口へと歩いていく。
「うまく説明しておきますから。終わったら、戻りますね」
意識を包んでいた熱が、急速に溶けていく。扉に手を掛けるあぎりの後ろ姿が、視界に映る。頭の中が白く染まり、そして弾けた。
「駄目だっ!!」
気付いた時には、後ろからあぎりの肩を掴んでいた。目を見開いて振り返ったあぎりの表情に、一瞬で我に返る。
「……あ……その……」
自分が発してしまった言葉を認識する。全身の血が沸騰し、汗が噴き出す。涙まで零れそうになるのを死ぬ気でとどめながら、ろれつの回らない口を動かす。もはや、前を見ることもできない。
「そ、そもそもこれは私が引き起こした事態だ……これ以上お前に迷惑をかける訳にはいかないっ。殺し屋としての面子にかけて、あのバカの責任は私が取る。し、仕方なくな!」
「分かりました。では、お任せしますね」
柔らかく、あぎりが微笑んだ。
†
保健室に戻ると、あぎりの連れてきた忍装束が、部屋の隅で座り込んでいた。時々やすなが寝ているベッドの方を見ては、しゃくり上げている。
「どうしたんですか?」
「うっ、やすな、やすなの奴が」
背筋に悪寒が走り、思わずベッドに駆け寄る。やすなは目から下を布団に埋め、ぶすっとした顔で横を向いていた。悪い想像が外れたことに、私は胸を撫で下ろした。そして、そんな自分に苛立ちを覚える。何を安心してるんだ、私は。
あぎりに促され、忍装束が涙声で訴える。
「汗で濡れてるから、着替えさせようとしたのに、全然させてくれないんだよお。布団を剥がしたら、噛みつかれるし。やっぱりやすな恐い!」
歯形の残った腕を振り、忍装束はあぎりに泣きついた。頭巾の隙間から零れる、三つ編みのポニーテールが揺れる。その頭をゆっくりと撫でながら、あぎりがこちらを向いた。
「では、この娘と私は行きますね。あとは、できそうですか?」
目を逸らしながら、ごくわずかに頷く。
「……」
不信の目を向ける私に、あぎりが手を横に振る。
「もう覗きませんよ~、ここで失礼しますから。十分に発散できたら、自然に治るはずですので、安心してください。替えの制服も置いていきますね」
いつも通りの緩やかな口調で言うと、あぎりはやすなに目線を送る。そして、まだ泣いている忍装束を脇に抱えると、部屋を出て、扉をしっかりと閉めた。
部屋に、私とやすなだけが残される。静寂が訪れ、カーテンの隙間から差し込む陽が、部屋をうっすらと茜色に染める。
「……起きてるか?」
「うん」
ベッドの側に立った私に、やすなが反応を示す。顔にかかった布団を外すと、赤みの差した頬に震える唇が姿を現した。
「どうして自分がこうなってるのか、分かるか?」
瞬きを繰り返すやすなに、私は溜息をついてみせる。
「刺客の毒矢にやられたんだよ。私が屋上で戦ってる時に、のこのこと出てくるからだ。ったく、手間をかけやがって。おかげでこちらも死にかけるし。本当、付きまとうのもいい加減にしろ」
こんなことを言うつもりはなかった。だが、口をついて出た言葉に引きずられるように、苛立ちが姿を現す。顔に、胸に、手に、腹に、脚に、不快が伝染していく。
真っ直ぐにこちらを見つめるやすなの瞳から逃れるように、私の口は雑言を吐き続ける。
「お前のせいで、殺し屋の任務も満足にこなせない。いらん怪我は負うし、朝から夜まで遊びに付き合わされて、時間を奪われる。挙句、仕事に行こうとしたら、妨害してくる。どういうつもりなんだ」
話せば話すほど、胸の内に澱みが溜まっていく。自分の声、表情、仕草、言葉、何もかもをぶちのめしたくなる。何に怒っているのかすら、分からなくなる。
「殺し屋なんだよ、私は。殺しは悪いことだってお前は言うけどな、私はそうやって生きてきたんだ。お前の物差しを押し付けるな。その気になれば、お前なんていつでも殺せるんだ」
なんて空虚な言葉なんだろう。私はいったい、誰に対して言い訳をしているんだ。それでも口は動き続け、やすなに、そして私に、とどめを刺す。
「二度と近寄ってくるな、邪魔だ」
ああ。ようやく分かった。私は、壁を作りたかったんだ。向き合うことを放棄して、逃げたいだけか。
やすなの奴はきっと泣く。あとは、動けないこいつを適当に裸にして、性欲を処理してやればいい。いくらバカでも、私と口を聞こうなどとは二度と思わないだろう。無表情を作り、顔を上げる。
やすなは、微笑んでいた。さっきと変わらない目でこちらを見て、小さく笑い声を漏らしている。
「何がおかしい」
「ソーニャちゃん、いつものおこりかたとぜんぜんちがうね。ちっともこわくないよ」
「っ!」
反射的に拳が動き、やすなの胸ぐらを掴む。動かないやすなの身体を無理やり引き起こし、私は怒鳴っていた。
「うるさいッ!お前に私の何が分かるんだ!」
「わかるよ、まいにちみてるから」
笑顔を崩さないやすなに、身体の動きが止まる。その瞳を、私は見てしまった。
「……ほんとういうと、さいしょはこわかったんだ。ソーニャちゃんのこと」
ひどい形相を私は浮かべているはずだ。それでも、やすなは目を逸らそうとせず、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「ぜんぜんわらわないし、ケガはするし。なんでとなりのせきなんだろうって、かんがえたこともあった」
それはこっちの台詞だ。なんでこんなバカと。
「でも、まけずぎらいなところとか、いがいとこわがりなところとか、かわいいところも、ちゃんとあるんだなあって、きづいた」
ふざけんな。そっちだってバカのくせにがめついし、ずる賢いだろうが。そのくせ傷つきやすくて、純粋で。
「はなしているうちに、もっといろいろなところがみえてきて。なにをいっても、ちゃんとむきあってくれるところ。いざとなったら、しっかりたすけてくれるところ。まいにちがにぎやかで、たいくつなんてどこかにいっちゃったこと」
それも全部お前のせいだよ。お前さえいなければ、何も見ないでいられた。お前さえいなければ、苦労なんてなかった。お前さえいなければ、ずっと穏やかでいられた。お前さえいなければ、こんな思い……
「たのしいんだ、ソーニャちゃんといると」
「……!」
息が詰まる。やすなの瞳から、初めて涙が零れた。
「あぶなくても、めいわくでも、わたしはソーニャちゃんといっしょにいたいよ。いっしょじゃ、だめなのかな?」
そんな顔をするな、バカ。
くそ、本当にバカだ。大バカ野郎だ、私は。こいつがこんな奴だってことは、最初から分かっていたはずなのに。
腕から力が抜け、やすなの身体がベッドに降りる。私はベッドの端に力なくうつ伏せ、シーツに顔を埋めた。
「ソーニャちゃん?」
やすなのか細い声を、暗闇の中で聞く。どのくらい、そうしていただろう。
「……もういい」
シーツから顔を離し、立ち上がった。途端に、やすなが素っ頓狂な声を上げる。
「あれ!?ソーニャちゃん、もしかしてな」
「泣いてねぇっ!」
「おごぉ!」
額に青筋が立つのを感じながら、やすなの腹に拳をめり込ませる。
「ひ、ひどいよ、うごけないのに……」
腹を押さえることもできず、声を震わせている。結局、こうなるしかないんだな。そして、次は私の番。
「ぐッ!」
「えええ!?」
私は大きく振りかぶり、自分の頬を全力で殴り付けた。やすなの叫びと鈍い打音が、部屋の中に響く。
「そそソーニャちゃんなにをやってるの!」
「何でもない」
これは罰だ。向き合うことから逃げた、私への罰。
戸惑うやすなをじっと見据え、私は口を開いた。
「服、替えてやる」
「えっ?」
ゆっくりと、ベッドの隣の机に向かう。その上にはあぎりの置いて行った紙袋、そして、お湯が溜まった洗面器と清潔なタオルが置かれていた。タオルを手に取り、洗面器の中に浸して、固く絞る。
「汗かいてるだろ」
やすなの側に戻り、うっすら湯気を立てるタオルを、顔に当ててやる。目を細め、やすなは心地よさそうな声を上げた。
殴った場所が顔なのも、洗面器のお湯が比較的熱かったのも幸いだった。これなら、顔が赤くても言い訳ができる。
制服の上着とネクタイを外し、近くの椅子に掛ける。一度深呼吸をし、ベッドの上に乗る。隅にタオルを置き、右手でやすなの頬に触れた。お互いの身体が、強張るのが分かる。
「こ、これも全部、お前のせいなんだからな。あとから文句言うな、よ」
最後の方はもう、音を成していなかった。くそっ、情けない。俯く私を、潤んだ瞳で、やすなが見上げている。その熱に吸い込まれるように、私はやすなの顔に手を伸ばす。
やすなの小さく開いた唇と、私のそれが、距離を縮めていく。
「ソーニャ、ちゃ……」
やすなの瞳が震える。私はゆっくりと、本当にゆっくりと顔を降ろし。
「んっ」
そっと、唇を重ねた。
†
「で、足腰立たなくなるってお前……」
「ソーニャちゃんがあんなにするのが悪いの!」
「ここに捨てていくぞ」
「あっごめんなさい運んでください」
夕暮れの川沿いを、私はやすなを背負って歩いていた。
あれから四苦八苦して、なんとかやすなの身体から毒を追い出した。だが、肉体疲労のあまり、やすなは一人で歩くことができなくなっていた。それで、こうしてやすなを背負い、家まで送ってやっているという訳だ。
茜色に染まる道に、重なって一つになった影が、長く伸びている。
「前も、こんな風に背負って、送ってもらったことがあったね」
「そうか?」
口を開いたやすなに、声だけで答える。
「私がソーニャちゃんの家に行きたいって言って、その途中で気絶しちゃって。結局あぎりさんの家に行った時」
「……ああ」
あの時は夜だったが。確か、催涙ガスでやすなの奴が爆睡して、仕方なく家まで届けることになったんだ。だが、家の場所が分からずに途方に暮れたんだった。
「気が付いたら公園で寝てて、びっくりしたよ。けど、実は私、途中で起きてたんだ」
「いや、何しても起きなかったぞお前」
「ソーニャちゃん、本当は家に連れて行って泊めてくれたんだよね。でも、バレたくないから、私が起きる直前にベンチへ寝かせたんだ」
「……ただの妄想だ、それは」
「じゃあ、もしかしたら、夢だったのかも」
「いいかげんだな」
「本当でも、夢でもいいよ。とにかくね、嬉しかったんだ」
やすなはずっと、私の背に顔を寄せている。服越しにも、温もりが伝わってくる。私は溜息をつき、意味もなくやすなに突っかかる。
「今日もお前のせいで散々だった。これに懲りたらもう、大人しくしろよ」
「あ、野球やってる。へいパース!」
「聞けよ!というか、その状態でどうやってやる気だ」
やすなの視線を追い、河原に目を向ける。子供たちが無邪気に遊び、その向こうには今日も変わらず、夕陽が沈んでいる。足を無意識に止め、その光景をじっと眺める。
「……大丈夫だよ」
振り返る。夕陽が、やすなの穏やかな笑顔を照らしている。
「ソーニャちゃんは、ちゃんとこっち側にいるから」
「…………」
黙り込み、再び私は歩き出す。このバカのことだ、きっと川岸の話でもしてるんだろう。そういうことにしておく。
†
翌朝、私は重い足取りで、通学路を歩いていた。
やってしまった……。人生史上、最大の汚点だ。昨日の痴態を思い出し、私は頭を抱える。
これからあいつに対して、どんな顔をすればいいんだ……。いっそ、始末してしまうか?私の黒歴史を消し去るためだ、法も許してくれるだろう。
「おはよー!」
背後から耳慣れた声が響き、私の身体が跳ねあがる。首を軋ませながらゆっくりと振り返ると、案の定、やすなが立っていた。いつも通りの、呑気な表情を浮かべている。
「あれ、どうしたの?なんか浮かない顔だけど」
「いや、その」
「そういう時は、あっちむいてホイをやると元気出るよ!」
「……意味が分からん」
その様子に目立った変化はない。
……もしかすると、毒の影響で昨日の記憶がないのか?
ほっと胸を撫で下ろした矢先、やすながはしゃいだ声を上げる。
「というわけでいざ!あっちむいてー!」
「付き合ってられるか」
無視して歩き出した私に、やすなが歓声を上げる。
「よし私の勝ちー!」
「はい?」
振り返ると、やすなは私の歩き出した方向を指差していた。そして、口に手を当てて噴き出す。
「弱いねソーニャちゃん、それでもプロの殺し屋なの?」
「最初からやってねえ!」
「あごし!強制で向かせるのはなしでーす!」
怒りを込めて殴りつけると、叫びながらやすなが吹き飛んだ。良かった、ようやくこれでいつも通りだ。
しつこくやすなが立ち上がり、不敵な表情を浮かべる。
「あれ、まだ気付いてないの?さっき振り返った時、背中にマヌケな紙を貼ったのに!」
「何!?」
こいつ、いつの間に!?慌てて自分の後ろを振り返るが、背中には特に何もない。
「おい、なんで嘘を――」
茶色の髪が、視界のすぐ近くに映る。
「んっ!?」
一瞬何が起こったのか、理解できなかった。
目を離した間に、やすなが私に近付き、顔を寄せてていた。そして、振り返った私に、唇を重ねていた。
「なぁーーーーっ!!?」
後ずさりし、私は茫然と目を見開く。
やすなは、笑っていた。手を後ろに組んで、髪を揺らして。心から嬉しそうに、バカみたいに笑っていた。
頬を赤く染め、はしゃぎ声を上げて、やすなが走り始める。
「っておい、待て!」
その後を、慌てて私は追う。くそっ、やっぱり苛々するっ!
(おわり)